ヤマイの反省の話題

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エロ漫画家の苦悩と反省のおはなし

映画を観ることは自分の思い込みを観るということなのか

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1976年公開のジョン・ギラーミン監督による映画『キングコング』は今となってはピーター・ジャクソン監督による2005年版ほどの驚きも1933年のオリジナル版ほどのワクワク感もない何とも中途半端な作品という評価になってしまっているようですが当時は日本でも大作扱いで派手に宣伝され、興行的にも成功を収めています。その頃の幼い僕は劇場では観られませんでしたが後にテレビ放映された時には家族揃ってかなりワクワクしつつ鑑賞した記憶があります。

  この作品におけるコングは大部分ゴリラスーツバカ一代な特殊メイクアーティスト、リック・ベイカーが製作及び中の人を担当したスーツを用いて撮影されておりましてこれはこれで映画史に残る逸品なんですが、当時の僕は子供特有の変な思い込みなのかそのように誤解させるような宣伝が日本の配給会社によって行われていたのか、全編特撮アーティスト、カルロ・ランバルディが手がけた、実際は僅かなカットでしか使用されていない実物大のモデルを使用して撮影されていたと信じ込んでいました。そのように深く思い込んで見ているとそう見えてくるもので機械じかけの実物大モデルがこんなにも精密に動くなんてすげーと終始びっくりしながら映画を観ていたものであります。結局それから何年も後、中子真治著『SFX映画の世界』(講談社)のリック・ベイカーの項を読むまで僕はだまされ続けていたのです。だまされたとはいっても真相を知った時むしろ楽しい気持ちになりましたし結構面白い映画体験だったのではないかとも思いますが。

 

、まあこれはかなり間抜けな例ですが映画の歴史は映像が観客をだまくらかしてきた歴史であるのも確かです。観客が賢くなってそれまでの方法ではだまされなくなってくるとまた新たなだましのテクニックが開発され…といった具合に映画は発展してきました。

 映画の黎明期、映像が動くというだけで商売になった頃のこと。映画の発明者リュミエール兄弟による1895年の作品『ラ・シオタ駅への列車の到着』にまつわる有名なエピソードはその最初の例と言えなくもないように思います。

 わずか50秒ほどの作品ですのでよければお気軽にご覧下さい。

       
    ラ・シオタ駅への列車の到着(L'arrivée d'un train en gare de La Ciotat)

 御覧の通りタイトルそのまんまの、今となってはどうということもない映像なんですが、当時汽車が画面の奥から手前に向かって走ってくる様子に観客がびっくりして思わず逃げ出した、なんて話がまことしやかに伝えられています。ウィキペディアによるとどうも眉唾くさいとのことですがそんな伝説が生まれるくらい当時の人々にとって衝撃的であったということでしょう。

 今回の記事を書くにあたって改めて調べていて驚いたのは次に紹介する作品が『ラ・シオタ駅への列車の到着』と同じ年に制作され、しかもこちらの方が『ラ・シオタ駅への〜』より早く公開されたということです。あやうく「もう少し時は下って」と書き出すところでした。ついでに書きますとトリック映画の父ジョルジュ・メリエスが作った映画だと思い込んでおりまして、それゆえ検索にかなり手間取ってしまいました。

 というわけで続いてエジソン社が同年に制作した、世界初の特撮映画ともいうべき『メアリー女王の処刑』。「タルカスとブラフォードのアレ」で伝わる方もきっと多いことでしょう。

 こちらは20秒弱です。

      
       Execution of Mary Stuart (1895) - Production Edison

 この作品にも当時の観客が「あれは本当に女優の首を切ったのではないか」と大騒ぎしたという伝説があると、以前映画の歴史を紹介したようなテレビ番組で聞いた覚えがあります。ネットで調べたところそういう記述が見つからないので少し不安になっているところですが汽車が駅に到着するだけで驚かれていた時代にこれですからあり得る話なんではないかと思います。

 この手の映像の凄さを物語る嘘か本当かよくわからないエピソードとしては円谷英二による大迫力の特撮で知られる1942年の映画『ハワイ・マレー沖海戦』を戦後実録映像と勘違いしたGHQが接収しようとしたなんて話も有名ですね。

 今では汽車が駅に到着する映像は何の感慨も起こさせない情報に過ぎないし、『メアリー女王の処刑』も『ハワイ・マレー沖海戦』も人々を楽しませることはあってもだますことはありません。ましてやギラーミン版のキングコングがすべて実物大モデルで撮影されたなんて思う馬鹿など現れようもないでしょう。

 でも映像の奇跡に素直にだまされてびっくりするというのもとても楽しい体験でありまして、当時の観客の気持ちになって作品に触れることが二度とできないというのもちょっぴり寂しいような気もします。

 

ういう論調で古い作品をとりあげていくとお定まりのコース、CG批判みたいなものに話を持っていきたくなってしまいます。映画館でも生まれた時にはすでにCG特撮が主流だった世代の観客が大多数を占めている中どう考えても人々の心に届く話にはなりそうもないですがしばしお付き合いを。かつて僕が『ジュラシック・パーク』を初めて観た時、主人公たちが最初にブラキオサウルスに遭遇し、次いで恐竜たちの群れる湖の遠景が映し出されるシーンで涙が出そうになったものですが、あの頃よりもはるかに進歩したにも関わらずCGそれ自体がが僕を感動させることは少なくなったように思います。CGがすごくなって本物に近づけば近づくほどうそ臭くなっていくような、変な言い方ですが「どうせすごいんでしょ」というような、そんな変に冷めた不思議な印象を持ってしまうのです。

 これは多分昔の映画のように「これってどうやって撮ってるんだ?」という疑問が生じる余地がないというところから来ているんだと思います。どんなすごい映像を見せられても「CGで作った」という明快(っぽい)答えが観る側にあらかじめ出来上がってしまっていることによるのでしょう。実際は要所要所で実体のあるセットや小道具大道具をおりまぜて観客の目がCGに慣れて「絵じゃん」となるのを防ぐ工夫がしてあったり、逆に観る側が全く注意していない部分が実はCGだったりと、種明かしをされたら驚く要素がたくさんあるものなんですが、実はそうではなかったとしても「CGで作った」で一応心の中で決着はついてしまうから納得して映像を見てしまうという心の働きがあるように思われます。

 

ういった考察を踏まえて「CGは映画をダメにしている!」という結論に持っていくのは簡単ですし、僕自身軽くそう思っている部分は正直あるようです。だからといって「時代の波に乗れないことを逆に誇りとしているおっさんキャラ」を演じる度胸はないのでここからはいや、必ずしもそうとばかりは言えないのではないかという方向で何か書いて締めくくるのがいいのではないかと思うのですが、でも「物分かりのいいことを言う理解あるおっさん」を演じるのもなんか違うような気がしますよね。どうしたものでしょう。

 CGが登場した時の否定的な反応というのはきっと特別なものではなく、多分トーキーやカラーが登場した時にもそれらが映画にとって良からぬものだと考えた人はいたのでしょう。それらもまずは見世物的に人々を驚かせ、驚きが薄れてくるとそれらをとりあえず使っとけみたいな思慮の浅い作り手を多く生み出してきたんだろうと思います。そうした連中がそれらの新技術に対する悪い印象を与える一方で最も効果的な使い方にいち早くたどり着く人も現れる、そんな一連の流れがワンセットで何度か繰り返して来たように思うのですがCGもそういう形で我々のおなじみになっていっているように見えます。

 今やCGが出始めの頃を知っているなんて言ったら年寄り扱いされる時代になりましたが、こういう物事の転換期を経験するというのはなかなかしたくてもできるものではないですし、そういう時代の経験から来る複雑な思いを持ちつつ映画に接することができるというのは結構楽しく特別なことなのではないかと思う次第です。

 

 最後にCGがCGであるというだけで驚きを与えた時代の映像などご紹介して締めくくろうと思います。まだ3DCGによる人体の再現が不可能と考えられていた1981年に制作されたアダム・パワーズまたはザ・ジャグラーとして知られるキャラクターです。これを作った人々が後に1982年の映画『トロン』に関わることになります。電脳空間というものを恐らく初めて題材とし、CGを本格的に多用した意欲作として知られる『トロン』ですが、そう言えばこの映画も実はCGっぽく見せたセルアニメや視覚効果がかなり使われていたという話ですね。当時そのことを揶揄した新聞記事を見た記憶がありますが、それもまた僕が本項で書こうと試みた映画の楽しさであろうかと思います。

                     
                                          "Adam Powers, The Juggler"

 

 ひとまずこんなところで。