ヤマイの反省の話題

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ヤマイの反省の話題

エロ漫画家の苦悩と反省のおはなし

見る目のある人間になりたいんだけど無理かもなあというおはなし

雑感

             

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ロ漫画のペン入れをしていてふと唐突におかっぱ、丸眼鏡、ちょび髭の画家藤田嗣治のことを考えました。本当はこういうことは展覧会でもあって実際にそういうのに足を運んでそのレポートを交えつつ書くとかっこいいのですが今のところ気軽に足を運べる範囲のところで藤田の展覧会はやっていないようなので、ほんとにただ考えただけになってしまってブログの体裁としてはいささかしまらないですね。

  

20世紀初頭の日本画壇の状況に飽きたらず渡仏、そこで一躍超人気画家としての地位を確立するものの日本ではさほどの評価も得られず西洋かぶれと揶揄される始末。その後第二次大戦下の日本に帰国し戦争画を手がけたことで今度は戦後戦争協力者として糾弾されたことでついに日本を捨てフランスに戻り(本人は自分が日本を捨てたのではなく自分が日本に捨てられたのだと言っていたそうです)かの地に骨を埋めるという波乱に満ちた生涯を送った彼も今では日本においても確固たる評価と多くのファンを得ています。僕も藤田の絵は好きです。好きなんですがしかし、自分が藤田の絵を好きであるという状態については常にモヤっとした疑いがつきまとうのです。

 果たして僕は藤田が日本であまり評価されていなかった時代、あるいは戦争協力者として非難を浴びていたリアルタイムに彼の絵を見ていたら、彼の絵を好きだとおおっぴらに表明できていただろうか、いやそれ以前にそもそも彼の絵をいいと感じることができていただろうか。そう思ってしまうんです。

 

あこんなことを言い始めたら絵画鑑賞なんてできなくなってしまうというのも分かっているんです。ゴッホ辺りを筆頭に生前正当な評価をされなかった画家なんて大勢いますし、それにだからといって現在評価の定まった芸術家達をあえて糞味噌にこき下ろして俺は一味違う物の見方のできる男だぜなんて態度をかますのも何だか違うような気がしますしね。評論家でもないただの絵画好きとしては周りが良いと評しているものを自分もつられて良いと思ってしまうのはこの際しかたないことだと思って、どこに良さを見出すかといった辺りで自分のオリジナリティを発揮しておけばいいのだと思います。

 

のところそういう生前評価されなかった芸術家の作品を見る時に感じる自分の審美眼への疑いをいささかなりとも解消する方法は一つ思い当たっております。今現在生きて活動していて評価の定まっていない芸術家の作品を積極的に見ていくことです。そして周囲の評価など全く関係なく良いと感じた芸術家を、例えばこのブログなどでどんどん紹介していくのです。その中で一人でも将来大成でもしてくれたら、その時こそ僕は何の不安も感じることなく藤田の絵を好きだと言えるようになるでしょう。

 でもそれって自分の色々なものが試されるかなり怖い行為ですよね。単純に鑑賞することを超えて価値を見定めるといった行為ともなると、これはやはりある種の才能が求められるものです。ピカソの「アビニヨンの娘たち」の価値を最初に認めた人間というのは実はピカソ自身と同じくらい賞賛されてしかるべきなのではないかと思うのです。

 世間から美術通であると思われたい僕ではありますがさすがにそこまで冒険的にはなれそうにありません。それによく考えたらそういう未だ無名のアーティストが作品を発表しているような、ギャラリーとかいわれる所って美術館なんかと違って足を踏み入れにくいですよね。僕はそういう方面でもかなりの臆病者でありますし。

 あと、現代の芸術が本当に何でもありになっていて軸足の置きようが分からないというのも怖いポイントですね。こういう形式の芸術こそ至高、なんていう権威主義勢力が画壇に君臨して世間にも強大な影響力を行使しているとか、体制が革新的な芸術を退廃芸術として弾圧するなんてこともないわけで、常識というものが存在しないに等しい世界で自分の感性だけを頼りにするのって実はとても難しいような気がします。

 

んなわけですからさしあたっては今自分が日本においても藤田嗣治の絵が良いとされている時代に生きている幸運を素直に喜んでおこうと思います。